【「ふじさわびと」表紙物語No.14】


No.14 歌手 麻倉 未稀さん

ドラマー 富田 京子さん

 

表紙に出ていただけるステキな方をいつも考えている。

歌手の麻倉さん、元プリンセスプリンセスドラマーの富田さんにも、どこかで表紙を飾っていただきたいと思っていた。

 

乳がん検診を呼びかける「ピンクリボンふじさわ」を立ち上げ、藤沢市民まつりで、初のコンサートをやるらしいことを知った。

今だ❣️

お二人に、取材申し込みをした。「ピンクリボン藤沢」の実行委員長と副委員長 に。

藤沢市役所の会議室で行われていたピンクリボンの実行委員会にお邪魔し、終了後、インタビュー撮影となった。

 

新市庁舎の庭園で撮った写真が今号の表紙となった。

 

ケセラセラ、何があっても大丈夫❣️というような笑顔の写真が撮れたらな?とカメラマンの美和ちゃんと打ち合わせ。

 

撮れた❣️

 

麻倉さんが空を見上げ笑い飛ばしてる写真は、事務所から「イメージが違う」とノーが出るかも?と気になり、社長さんにお見せしてお伺いを立てたら、即、OKだった❣️

 

麻倉さんは、乳がん手術をして間がないにもかかわらず、前向きな明るい姿勢と笑顔で人を包み込む。富田さんは、以前から乳がん検診の啓発活動をなさっていたという意識の高い方。お二人連携の心配りが人々の心を動かし、みんなの連帯感を高め、活動を引っ張っていく。

 

ピンクリボンふじさわの初のコンサートは、大成功❣️

 

出演したウルトラセブン森次晃嗣さん、つるの剛士さん、ハーフムーンの琢磨 仁 、啓子さん、

そして歌手の麻倉さんとドラマーの富田京子さん。

 

なんと、みんなみんな「ふじさわびと」の表紙を飾ってくれた「ふじさわびと」だ。

 

いつもご協力ありがとうございます。


【「ふじさわびと」表紙物語No.13】


No.13 作家 佐江 衆一さん

 

藤沢が気に入り、結婚を機に藤沢に住むようになったという佐江さん。

 

芥川賞に5回もノミネートされたが、その賞は逃したものの、数々の文学賞に輝く大作家だ。

 

藤沢“愛”タウン誌「ふじさわびと」を発行すると決めた。

 

中身をどうするか?

 

一つは文学の香り高いものを載せたい。

タウン誌「ふじさわびと」の品格を保つために。零細タウン誌なのに考えることは一丁前の高望み💓

 

で、佐江先生のお宅に伺った。佐江先生とは前職の地域新聞の編集長時代から懇意にさせていただいてきた。

 

「退職後、ついにタウン誌出すことにしました。つきましては、『藤沢』について何か書いて欲しい」とお願いした。

 

それが、創刊号「終の住処『藤沢』」だ。原稿を頂いた時、嬉しくて涙が出た。多くを語らずも、私が欲していた「ふじさわびと」の創刊にふさわしいものだったからだ。

 

2号目から、「ふじさわ歴史さんぽ」の連載を続けてくれている。

 

零細タウン誌ということを知っているので、応援原稿料💓で書いてくれている。

ありがたいことだ。

皆様の支えがあって、今日まで、質を保って発行できることに感謝❣️

 

今回のタウン誌フリペ大賞は、作家の書斎のこの号でエントリーした。

 

佐江衆一受賞歴

* 第7回新潮同人雑誌賞

* 第9回新田次郎文学賞

* 第5回ドゥマゴ文学賞

* 第4回中山義秀文学賞

* 第45回、第48回、第51回、第52回、第53回芥川賞候補


【「ふじさわびと」表紙物語No.12】


No.12

世界最高齢アプリ開発者

若宮 正子さん

 

藤沢に住み、パソコンの世界では早くからマーちゃんの愛称で親しまれていた。

 

そのシニアアイドルが、ひな壇アプリを開発し、昨年、アップル社 ティム・クックCEOと対談。メディアで大きく取り上げられ、世界のマーちゃんになった。

 

「エクセルアート」「アプリ開発者」「TED出演」「国連演説」など、など、今では講演で世界中を飛び回るほどに。日本で最も有名な83歳かもしれない。

 

取材は、湘南クリスタルホテルでお目にかかった。

人生のお手本のような方❣️せっかくの機会なので、なるべく多くのスタッフにも会わせ てあげたいと思ったら、取り囲むような取材になってしまった。

 

銀行を退職後、お母さまの介護もあり、外出もままならない状態に。外の世界と繋がれる手段として60歳からパソコンを始めたという。好奇心と何事も前向きの姿勢が大きく世界に羽ばたかせた。

 

ものに動じず、爽やか。

キリッとしてるのに、可愛らしい。

本当にお手本にしたい方だ。


【「ふじさわびと」表紙物語No.11】


 

No.11 

ウルトラセブン 森次晃嗣さん

 

『ウルトラセブン』は、円谷プロダクション・TBSが制作した特撮テレビ番組、1967年10月1日から1968年9月8日まで、全49話が放映された。

 

ウルトラセブンのお店「ジョリーシャポー」が、藤沢鵠沼海岸にある。取材前、誘われて行ったこともあった。

 

森次さんを表紙にしたいが?失礼ながら、50年も前のスターでいいのか?思案していた。
そんな時、ウルトラセブン放映50周年の企画展が横浜高島屋で開かれているのを知った。即、行ってみた。子どもから大人まで老若男女のファンでいっぱいだった。ウルトラセブンは、50年経ってもみんなの心に生き続けていることを知った。

モロボシダンこと森次さんは、もう70歳を超えてるはずだが、今も、かっこいい❣️スターのオーラ健在だ。

藤沢のジョリーシャポーには、今も、日本各地から、世界から、ヒーローに会いに来る。

 


【「ふじさわびと」表紙物語No.10】


No.10 ハーフムーン

琢磨 仁 ・啓子さん

 

琢磨仁さん・啓子さんの夫妻デュオ。仁さんは宇崎竜童さんや桑田佳祐さんのプロジェクトにも参加する音楽家、奥様の啓子さんは作詞作曲も手がける。

音楽はもちろん、さまざまなボランティア活動にも取り組むなどお人柄も素晴らしいご夫妻だ。

ふじさわびと10号記念すべき号なのだ。

タウン誌の類は、資金が底をついたり、ネタがなくなったりで、3号で消滅するタウン誌が多い中、10号まで発行できたらお世話になった方々と感謝パーティを開きたいなと思っていた。

が、パーティどころか、10号発行も危うい状態に。

4月に階段から滑り落ちて二箇所複雑?捻挫をして暫くギプスと松葉杖にお世話になった。零細タウン誌は、休めない。助っ人に助けてもらい、足を引きずりながら何とか発行にこぎつけた。しかし、パーティを開く余裕はなかった。

で、「10号発行記念」に…日本タウン誌フリペ大賞に応募しておいた💓

 

そうしたら、なんと、なんと、読者投票部門で全国一位❣️ライフスタイル部門優秀賞というダブルでご褒美をいただいた💓いい10号記念となった。ありがとうございました。

 


【「ふじさわびと」表紙物語 No.9】


No.9 チェリスト堤 剛さん

 

堤 剛さんは、日本を代表するチェリスト。財団法人サントリー芸術財団代表理事、サントリーホール館長などを務めるすごい人なのだ。

 

15歳で日本音楽コンクール第1位を獲得。世界の舞台で活躍するクラシック音楽の重鎮だ。

世界の堤さんが、藤沢に縁がある?ということを知ったのは、片瀬小学校で音楽授業をしたという記事がタウンニュースさんに載っていたからだ。慌てて、人を介してアポイントをとっていただいた。

 

東京銀座の音楽事務所でお目にかかった。その道で上り詰められた方なので、音楽に対しても自分に対しても厳しい方だ思うが、素人の私たちに、目一杯、一生懸命お話くださいました。人に優しい方だというのがヒシヒシと伝わりました。

堤家のお墓は、今でも片瀬にあるそうですよ。


【「ふじさわびと」表紙物語No.8】


No.8 振付師 南 流石さん

ヘアスタイルと丸い大きなメガネが特徴の南流石さん。圧倒的な存在感だ❣️
藤沢市片瀬出身です。

「みんな〜、今日から仲間だからね〜💓」と大きな声で、その日初めて会った子供達に呼びかける。その瞬間、一瞬にチームの連帯感が生まれる。

お目にかかったのは、湘南台市民センター。公募で集まった子供達へふじきゅんダンスを指導する日だった。

取材前、見学させていただいた。そのチームワーク作りの上手さに感心した。子供達にも丁寧な言葉で話す。「タメ口きくとその段階からダレるから」という。

伸びやかで清々しい南流石さんだった。

昨年度『「ふじさわびと」の全国一位を祝う会』2月8日にお祝いに駆けつけてくださった。
パーティの幕開けは、南流石さんのリードでふじキュンダンス。老いも若きもみんなでワイワイ踊った。一瞬にしてパーティが盛り上がった。本当にありがとうございました。


【「ふじさわびと」表紙物語No.7】


 No.7 セーリングオリンピック選手 土居愛美さん

 

7号の表紙は、セーリングオリンピック選手の土居愛美さん。

 

江の島のヨットハウスでお目にかかった時は、地元、慶応義塾大学在学中だった。年間半分は遠征で世界の海を回っているということだった。

 

18歳の時にロンドンオリンピック選手に選ばれ、2016年はリオネジャネイロのオリンピックに出場した。そして、2020年の東京オリンピックは3度目の出場になる。

 

セーリングを始めたのは小学2年の時。2歳上のお兄さん(土居一斗さん)の練習について行ったのがきっかけだったという。

この時の取材も、お兄さんの一斗さんも一緒だった。仲の良い兄妹は、ともにブラジルオリンピックに出場した凄い兄妹なのだ。

 

土居愛美選手は、今年9月のジャカルタ・アジア大会で女子レーザーラジアル級金メダルを獲得した。

 

2020年7月26日、江の島でのオリンピックへのメダルの期待が高まっている。


【「ふじさわびと」表紙物語No.6】


藤沢“愛”タウン誌「ふじさわびと」表紙物語

No.6 は、ウルトラマンダイナ、ふじさわ観光親善大使のつるの剛士さん

 

6号の表紙は、我らのつるの剛士さん。

歌手であり、タレントであり、しゃっちょたち5人のお子さんの良きパパであり、ウルトラマンダイナでありながら、ふじさわ観光親善大使なのだ❣️

 

何が素敵って、その飾らないお人柄。「藤沢愛」を惜しみもなく全国に発信してくださる姿は感動ものです。

 

創刊当初からどこかで登場していただきたいと考えていました。観光協会の会報の取材でもお目にかかっていたので、図々しくも、江の島のてっぺんのイベントの際、『「ふじさわびと」に出てください』と楽屋テント前の出待ちスタイルでお声がけしてしまいました。笑顔で「はい❣️いいですよ〜」。このかろやかさ、万歳💓スケジュール調整で、つるのさんの事務所、観光協会、藤沢市を慌てさせました。お世話になりましたm(_ _)m

 

この表紙の写真撮影は、辻堂のテラスモールでのイベント時の楽屋です。

ちょっとはにかんだような表情は、話題になりました。

5人目のお子さんがもうすぐ誕生するという話の途中、「つるのさんっていつもオシャレですね〜」って私の野暮な質問に、「僕、奥さんに嫌われたくないから……僕、奥さんが大好きなんですよ」と語ってくださった一瞬の表情です。

 

この写真を撮った加藤美和ちゃん。数ある写真からこの写真を表紙にデザインした平松麻ちゃん。二人の才能にも乾杯❣️

 

ほのぼの取材を終えて楽屋を後にしました。

 

帰途、午後のテラスモールのステージをつるのさんが欠席したとのニュースが流れました。

え???

びっくりした私は、心配メッセージを入れました。数時間後、丁寧なお返事メッセージが来ました。

「実は、朝から体調芳しくなかったので、風邪薬を飲んだら飲み合わせが悪かったのかダウンし、午後のステージに立てなかった。恥ずかしい。自分の健康管理の悪さを反省していると。その後、持ち直し、今はもう福岡です」と。

 

丁寧なお返事をくださったことと、その内容にますます惚れ直しました。

 

役得で、時々、ツーショットなど撮らせてもらう機会に恵まれます。とっさの写真でも、必ず、つるのさんが寄ってくださっています。本当にサービス精神旺盛な方なんだとしみじみ写真を眺めながら思います。

ウルトラマンダイナは、人としても素晴らしい💓

 


【「ふじさわびと」表紙物語 No.5】


ふじさわびとNo.5の表紙は、女子プロゴルファーの西山ゆかりさんと師匠の芹澤プロ。

 

西山ゆかりプロは、藤沢西高出身。実家は湘南台駅近くのいっぱち竹寿司。そこのお嬢さんです。

 

5号目ともなると、「何か変わった職業の人、それも女性とかいいね」とのリクエストもあり、西山ゆかりさんの名が上がってきました。ゴルフに疎い私は?。

で、調べていたら、なんと、ちょうど優勝なさいました。チャンス❣️

 

実家のお寿司屋さんの常連だというファン?のおじさまに連絡を入れていただき、取材申し込みをしました。

 

取材場所は、お寿司屋さんではなく、ご自宅に伺うことに。

 

勝負するゴルフウェアの時とは違い、髪を下ろし、ワンちゃんを可愛がる純朴な少女のような優しい方でした。ご自宅にはあまりいらっしゃらないせいか、ちょっと戸惑いながら、ご自身でお茶を入れてくださいました。

 

遅咲きだったご自身のことなど、プロの厳しさをお話してくださったのですが、なぜか?ふんわりとした印象が残っています。

 

その年の年末の優勝パーティに、「ふじさわびと」を配りたいという申し出があり、東京のホテルに300冊お送りしました。

また、発行後、「表紙にしてくださったお陰で、藤沢市スポーツ功労賞をいただけた」とお母様からお礼の報告電話をいただきました。いい思い出です。


【「ふじさわびと」表紙物語No.4】


4号の表紙は、飛ぶ鳥落とす勢いの武田双雲さんだ。

 

実は、この時の双雲さんへの取材は3回目。

 

最初は、前職の地域紙での取材で、当時お住まいだった辻堂のお家に伺った。

2回目は、現在の御宅の前側?

3回目は、現在の御宅の後ろ側のアトリエでお目にかかった。

 

2回目と3回目の間にも、御宅を訪ねている。当時、藤沢商工会議所女性会の副会長をしていた私、女性会20周年記念式典でパフォーマンス揮毫をしていただくお願いに訪れたのだ。

その時したためてもらった書「感謝」は、現在の商工会議所6階の廊下に展示されている。

最近話題の農家レストラン「いぶき」の看板も双雲さんの書だ。

 

書道家だからか、双雲さんだからか?

集中力がすごい。

和やかにお話していても、

撮影に入るとさっと空気が変わり、体制が整い、一瞬にして表情が決まる。

 

何から何までプロだなと感心したものだ。

 


【「ふじさわびと」表紙物語No.3】


No.3 鈴木市長、田中会頭、二見観光協会会長(取材当時)

 

3号目にもなると、あちこちから、次の表紙は誰?と声がかかってくる。沢山の候補の中から、この人‼️と決めるのは至難の業。市長は?会頭はどう?観光協会会長もいいね?

 

え〜い!

 

いっぺんに出てもらおう‼️

と、なんとも大胆な決心をした。

 

ラッキーなことに、お三方ともが、正真正銘、生まれも育ちも「ふじさわびと」だったからだ。

 

各組織にお願いをした。何しろ、藤沢一の各組織のトップ、いわゆる藤沢の顔に、生まれて間もないタウン誌が、三人揃って日時を合わせろと言うのだから、大胆不敵とはこのことだ。

 

市長室に皆さんお集まりくださった。それぞれの秘書らしき方も立会い、ギャラリー大勢の大仰な座談会となった。

 

スケジュールの関係で座談会開催が夕方になり、外で写真が撮れるのか?どこで撮るのか?あれこれ思案を巡らせたものだ。結局、市長室で撮った写真を切り抜きで使うことにしたけれど…。

 

この座談会には、後日談がある。

 

お叱りを受けたのだ。ライターとして連れて行った者が、自身が発行していた別のタウン誌をみなさんに配った。

 

「ふじさわびと」の取材は許可したが、ほかのタウン誌の人間がいるのはどういうことかと…後日、呼び出された。

 

多忙な藤沢の重鎮が三人揃って顔を合わせることはそうそうない。日頃、なかなか話せない話も出る場に、許可もしていないタウン誌の人間がいるのは?とのお叱りだった。

スタッフ不足とは言え、シェア感覚で連れて行ってはまずい場だったということを大いに反省した。

 

まだ生まれて間もないタウン誌に 貴重な場を与えてくださったのは、「ふじさわびと」の真面目な作りを認めてくださってこと。そして、私自身の前職での仕事振りを信頼くださっての賜物だと思うと感謝に堪えない思い出の取材だ。

 

今は亡き二見会長に紙面を飾っていただいたのも良い思い出になっている。

 


【「ふじさわびと」表紙物語No.2】


No.2 表紙は、

新江ノ島水族館 堀由紀子館長(当時)

 

第2号の表紙は、さて?どうしたものか?走りながら考える私、親子、家族の肖像みたいなものをやってみたいと意識のどこかにいつもある。

ステキな親子???

みんなが、あ〜、へ〜、そうなんだと思える親子……?

「藤沢の宝」がキーワード。

 

そうだ!新江ノ島水族館だ!!

 

経営者の堀館長、堀社長は、一世を風靡した映画会社日活の創業家のお家柄。水族館としては珍しく、新江ノ島水族館は、堀家が運営するオーナー水族館なのだ。

 

当時の館長は、堀由紀子さん。社長はご子息。絵になる親子、いい感じと思い、アポを入れた。

 

やはりと言おうか?一久社長には逃げられ(笑笑)、堀館長のみでとの回答が来た。

新米タウン誌のくせに、何を高望み、堀館長が受けてくださるだけでありがたい。

 

9月の残暑厳しい暑い暑い日、インタビューと写真撮影を決行。

水族館といえば、イルカ🐬

堀館長の後方でイルカがジャンプしている図を撮りたい。一瞬のタイミングを逃せない。ショーのイルカがジャンプするタイミングのたびに、堀館長に笑顔ポーズを要求しながら、撮れた‼️

 

苦労して撮ったにもかかわらず、表紙になったのは、クラゲの前の写真となった。

 

お上品な堀館長には、強い日差しのもとでのイルカのジャンプより、ブルーのクラゲの前の方が似合うということになったのだ。

亀の前でも撮らせていただいた。

 

お疲れ様でした。ありがとうございました。

 


【藤沢“愛”タウン誌「ふじさわびと」表紙物語 創刊号】


創刊号表紙は「遊行寺のお上人」

 

人生最後の仕事として、地元「藤沢」に特化したタウン誌を出したいと決心したのが、2014年のお正月。

 

当時、「湘南」という名のもとに一括りにされて、「藤沢」という名が見えなった。こんなに歴史もあるいい街なのに、「藤沢」が知られていないのは、かわいそう。

 

タウン誌の名前は「ふじさわびと」にしよう。人を通して、藤沢を表現しよう。

 

とにかく形を作らねば。

まず表紙?

「遊行寺のお上人に出てもらおう❣️」

 

お金もない、スタッフもいない。

正面から切り込むしかない。

 

「タウン誌を発行したい。ついてはインタビューをしたい」とお上人ご本人に、お手紙を出した。お寺を通すとまだ影も形もないタウン誌では、断られると思ったからだ。

 

ご本人、直々に、お電話をいただき、取材が実現した。寒い寒い2014年2月のことだった。

 

なぜ、遊行寺お上人だったのか?

 

前職の地域新聞の編集長を退いた時、お世話になった方に挨拶ハガキを出した。たかがハガキ、されどハガキ。「ご苦労だったね」とわざわざ労いのお電話をいただいたのが、時宗総本山の遊行寺の頂点、他阿真円お上人そのご本人からだった。

 

遊行寺と言えば、藤沢市の宝。当時、95歳(現在100歳)のお上人は、雲の上の人。

その方が、どんなタウン誌になるか?まだ右と左もわからない状態で取材を受けてくださったのだ。

 

偉い人は、人を、区別、差別、しない。

 

そうして、2014年5月に、無事、創刊にこぎつけることができた👏